訂正箇所 |
誤 | 正 |
11ページ・下写真キャプション3行目 |
艦上戦闘機 |
陸上攻撃機 |
12ページ・本文6行目 |
艦上戦闘機 | 陸上攻撃機 |
20ページ・本文14〜15行目 |
大胆な推定を出している。この記事に |
大胆な数字を出している。同記事に |
20ページ・本文16行目 | この数字が、この時に破壊された航空機の |
このデータが、破壊された航空機の |
52ページ・本文最終行 |
それは、突然の出来事だった。 |
(削除) |
53ページ・上写真キャプション1〜2行目 |
国際線第1便の出発(提供:日本航空)◉1954(昭和29)年2月2日、国際線第1便「シティ・オブ・トウキョウ」号が羽田空港を出発した。このフライト |
東京〜サンフランシスコ間・第1回試験飛行の出発(提供:日本航空)◉1953(昭和28)年11月23日、「シティ・オブ・キョウト」号羽田出発の様子。なお、1954(昭和29)年2月2日の国際線第1便 |
54ページ・1行目 | 亡くなったのだ。 | 亡くなった。まさに突然の出来事である。 |
61ページ・下写真キャプション2行目 | 三期の芝富美子。 | 三期の柴富美子。 |
75ページ・上写真キャプション1行目 | ラバウルでの水上機による偵察任務 | 海軍時代の江島三郎 |
75ページ・上写真キャプション6〜7行目 | ゼロ式水上機での | (削除) |
75ページ・上写真キャプション9〜11行目 | 写真はラバウルでの水偵時代のもので、1942(昭和17)年頃のものと思われる。 | 写真の撮影時期と場所は不詳。 |
89ページ・上写真キャプション11〜13行目 | 写真は1日目の行程を終了し、ギリシャの首都アテネにやって来た踏査隊一行。 | 写真は、1961(昭和36)年6月19日のIOCアテネ総会初日に各国IOC委員に紹介された踏査隊一行。 |
89ページ・下写真キャプション12〜13行目 | 国務省 | 陸軍参謀本部 |
94ページ・本文3行目 | ニューデリー〈インド〉、 | ニューデリー〈インド〉、カルカッタ(現・コルカタ)〈インド〉、 |
95ページ・下写真および同キャプション10〜15行目 | <下写真> 写真はマレーシアのクアラルンプール空港で撮影されたもの。左側が日本航空の航整企画課に所属し、後に聖火空輸派遣団の団員に委嘱されることになる熊田周之助(P120参照)。 |
(<下写真>差し替え) 写真はギリシャのアテネにて撮影。左から熊田周之助(P120参照)、高島文雄、ひとりおいて藤岡端。 |
96ページ・本文14行目 | 同機はタイのバンコク、パキスタンのカラチ、 | 同機は香港、タイのバンコク、パキスタンのカラチ、インドのカルカッタ(現・コルカタ)、 |
99ページ・上写真キャプション | (上写真キャプション全文) | テヘランでの聖火リレー開始の様子(提供:熊田美喜/協力:阿部美織、阿部芳伸、阿部哲也)◉1964(昭和39)年8月26日、イランのテヘラン・メヘラ バード空港における聖火リレー開始の様子。この日、空港にはポロの選手たちやレスリング・チームが出迎え、それぞれ聖火リレーに同行した。 |
107ページ・下写真およびキャプション | <下写真> (下写真キャプション全文) |
(<下写真>差し替え) ルビー台風の襲来(提供:熊田美喜/協力:阿部美織、阿部芳伸、阿部哲也)◉香港でのルビー台風(昭和39年台風17号)の被害の様子。おそらく1964 (昭和39)年9月5日の撮影。宿泊していた香港ヒルトン・ホテルの部屋から駐車場を撮影したものだと思われる。「団長秘書」を勤めていた熊田周之助の撮 影によるもの。 |
118ページ・本文3行目 | 戦後は一切 |
その後、一切 |
118ページ・本文18行目 | 戦後も日本体育協会理事やIOC委員などを歴任し、 | 戦後も日本体育協会理事などを勤め、 |
127ページ・下写真キャプション1〜2行目 | 8月1日、YS-11試作1号機の安全祈願の模様。 | 8月24日、YS-11試作1号機の修祓式の模様。 |
143ページ・下写真キャプション1〜4行目 | 聖火空輸の公開テスト飛行 (提供:三菱重工業株式会社)◉1964(昭和39)年9月3日、公開テスト飛行の日の写真と思われる。 | 聖火フライト準備中の「聖火」号(提供:三菱重工業株式会社)◉写真は |
143ページ・下写真キャプション8〜15行目 | 陽の高さなどから考えて、鹿児島から給油などのために戻って来た時のものと思われる。この日は、本番と同じく全日空クルーも乗務。多数の報道陣も機内を見学しており、この小牧と羽田で多くの取材を受けていたようだ。 | 1964(昭和39)年9月3日の公開テストの際のものか、それ以外の時のものかは不明である。 |
147ページ・下写真キャプション6〜10行目 | 国内聖火空輸団とともに羽田から乗り込んだ組織委員会参事の松沢一鶴らしき人物(写真手前一番右)が写っていること、さらに聖火台にまだ聖火灯が置かれていないなどから、1964(昭和39)年9月8日に那覇に向かっている途中で撮影されたものと思われる。 | YS-11「聖火」号機内を撮影したものではあるが、1964(昭和39)年9月3日の公開テストの際のものか、9月8日に那覇に向かっている途中で撮影されたものかは不明である。 |
159ページ・下写真キャプション10〜11行目 | 同・組織委員会委員の青木半治。 | 北海道体育協会副会長の川崎静一郎。 |
167ページ・上写真キャプション5〜6行目 | 松下氏、西村氏、藤縄氏、淡野氏は退職して日本航空のパイロットに転身。船橋氏はブルーのリーダーとなったが、松島基地に転属後の1977(昭和52)年に死去。予備機の城丸氏も | 松下、西村、藤縄、淡野は退職して日本航空のパイロットに転身。船橋はブルーのリーダーとなったが、松島基地に転属後の1977(昭和52)年に死去。予備機の城丸も (*すべて他と揃えて敬称略。) |
184ページ・本文7行目 | 待っていたのである。 | 待っていた。 |
267ページ・下写真キャプション2行目 | 1958(昭和60)年5月8日、 | 1985(昭和60)年5月8日、 |